マルコによる福音書7:31-37
耳の聴こえない人は口もきけないという事実があります。
これがどれ程大きく辛いことでしょうか。
神様が私たちの体を想像された時、
なぜこのような構造にされたのかわかりませんが、
そこには大切な意味があるのではないかと思います。
本文31節にあるように、イエス・キリストの働きの場が広がり、
沢山の人々がイエス様の噂を聞き、子どもさえ大人の群れの中で共にいました。
その中で一人の耳の聴こえない人が、手を引かれてイエス様の前に案内されました。
大切なことは耳の聞こえない人にイエス様を伝えるには、
ただ伝えるだけでなく案内しなければならないということです。
現代でもラジオ・テレビ・ホームページを通して
イエス様を伝えていますが、霊的な耳が聞こえないのでは、
日本の魂は主の前に戻ってきません。
この聞こえない人に、私たちはどのような福音の伝え方をしていたのでしょうか。
接触的にイエス様の処へ、み言葉のある処まで案内してあげたのかどうか、
ということです。
礼儀やマナーを無視するのではなく、
聖書がどのように私たちに教えてくださるか、
ここに「キー」があるのではないかと思います。
時には大胆な心を持って、霊的に耳の聴こえない人を
イエス様の処に案内し、手を置いてくださるように願いましょう。
日本の社会の中で「エッファタ(開け)」という
神様の奇跡が教会から起きますように。
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